現在、様々な説が飛び交っていますが
もっとも有力だと思われる(自分が思っている)説をここでは紹介していきます。


それはアイルランド移民によるものと黒人奴隷から生まれたものが融合して出来たと思われます。
まず、アイルランドの土壌というのはぬかるみが多く必然的に木靴(クロッグ)が用いられ、当然ですが
硬いところで歩くと”カタ、カタ”と音がするので、自然と靴で音を出す事に馴染んできたと思われます。
そこから、今度は”もっと早い足さばきを”と思っていたところで皮の靴が登場しますが、
やはり音を出すという点で物足りなさがありました。それから時代は封建社会となり
硬貨(銅で出来たもの)が登場しそれを革の靴の裏になんとか取り付けて音を出して楽しんだそうです。
また白人の奴隷として船で連れてこられる際に(プランテェーションなどで働かされる為)
黒人が ”もともと音楽的なもの”として使用していたドラムを
”何かの伝達をドラムで行なっているのではないか””いつか反乱を起こすのではないか”
と白人が勝手に思いこみドラムを取り上げてしまいました。
そうなると自らの表現方法として行なえるただ1つの方法が身体を使って表現する事でした。
それから奴隷の黒人達は部族の伝統や儀式のリズムを自分の足と身体で表現する様になりました。
これら2つの流れは社会の歴史ととても密接な関係があり、ある意味自然な流れで
タップの歴史が出来上がっています。(この時点では現在のタップダンスとはかなり遠い)
アイルランドで生まれたものと黒人の奴隷制度から生まれたものが、互いに移民を行なう事により
アメリカという国で融合し現在のタップダンスに少し近づいてきました。

ここで問題なのが黒人もアイルランド人も共にタップダンスの始まりは我々であると主張していることです。
逆を言えば、融合などせずに自分達の先祖の原型が進化した形が現在のタップダンスであると・・。
第三者から観ると(自分を含めて)融合して出来たものという考えが一般的ですが、
黒人、アイルランド人にとってみれば(タップダンスに関与している人達)ものすごく重要な問題で
”自分達のもの”という考えを強く持っています。
そういう考えの裏には共に苦しんできた、貧困・差別に関する問題も深く関与しています。

その後、移民の定着・奴隷解放などもあり急速にタップダンスの発展につながっていきました。
そしてミンストレルショーやボードビルなどで多くのパフォーマーが”タップ”を行なうようになりましたが、
木の靴を履いて踊る人とあまり音の出さない革の靴を履く人の2つの主流なものに分かれていました。
1915年頃タップスの出現により、2つのスタイルは1つになり現在のタップダンスの始まりとされています。

次の世代に伝えるために専門用語と教えは必要とされ、1919頃ニューヨークの"NetWayburn School"で
始めて科目として取り入れられました。その頃ボードビルなどで数多くのステップやコンビネーションが
生まれたにも関わらず1930年代後半になるまで紙上に記載されることはありませんでした。
体育教育(身体活動)の一環としてタップダンスを教えていたためです。
後に動きのリズムが音楽のカウントを取り入れる事によって用途が広がり、
各地でタップダンスにおけるディスカッションやセミナーが行なわれ紙上に記載せれるようになりました。
そしてようやく、1930年代後半から1950年までに現在のタップダンスの形や用語が確立され始めました。


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